あなたは「句読点」を適切に織り込んだ手紙を書いている自信がありますか?
長文になるほど「句読点」をどこに打つのかを考える時間が増えますが、全くと言っていいほど「句読点」を打たない人もいるようです。
また「句読点」を打ってはいけない・打たないのがマナーとして良しとされる手紙もありますね。例えば「年賀状」や「お祝いの招待状」がそれにあたります。おめでたい手紙を書くのに句読点を打つと「めでたいことや幸せに切れ目ができてしまう」ということが理由です。
言われてみればそうなのかもしれませんが、通常手紙を書くときには「句読点」を打ちますね。文章や言葉の「切れ目」や「繋がり」などを相手にわかりやすく示すためには欠かせないものとして定着しています。
この「句読点」がほとんどない、もしくは全くない長文を書くのには心理的な理由が関わっていると言われています。
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猛烈に思慮深い人にあるパターンと言えます。
「句読点」がなく、その手紙や文章が長ければ長いほど書き手の「考え」の深さもどんどん深くなっているのです。
「ああ言えばこう言う」というタイプから見ると考えられないような現象かもしれませんが、考えに考え抜いて書いているという手紙にこの傾向が見られます。しかも、書きながらもまだ考えているというときには本当に最後の最後につくはずの「。」すらなかったりします。
「謝罪の手紙」や「告白の手紙」をもらっても、「あの人はきっと手紙に書いてあるほど深く考えていないのよ!」と思ったときにはこの「句読点」を数えてみてはいかがでしょうか。
例えばお母さんに宛てた手紙には「句読点」を打ちながらさらさらと書いています。なのにお父さん宛ての手紙は、書き終えてみると時間がかかった割に「句読点」がなかった・・・
こんなときにはお父さんにかなり「遠慮している」と言えるでしょう。
「句読点」は文章を声に出して読んだ時の「息継ぎサイン」でもあります。あまりにも遠慮していると、考えすぎて思わず「息継ぎ」することさえ忘れてしまいます。とにかくその手紙を書き終えることに力を注ぎすぎた結果とも言えますね。
言いたいことや主張したいことが多すぎる!でもこの手紙に書いてしまわなければいけないの!というような「自己主張盛り込み型」の人も「句読点」がない長い手紙を書くようです。
自分の言いたいことをいかにこの「手紙」というツールに盛り込むのか、どうやったら主張をこの1枚の封筒に入れてしまえるのか。「句読点」がない長い手紙を見ると、息を詰めながら一心不乱に書いている姿が目に浮かぶようだと思いませんか?
明治時代に子どもたちが学校で読本を読みやすいようにと始まったのが「句読点」だという説があります。このため、現代でも「句読点」を手紙につけるということは「相手に対して失礼だ」と言って避けることもあるようです。
文章や言葉の切れ目を「ここですよ」と指し示した手紙を相手に送るのが失礼に値するということなのだそうです。
いかがでしたか?「句読点」が必要かどうかという問題もまだまだあるようですね。しかし「句読点」がない手紙をもらったら、多分私たちは「どこでどうなっているの?」と読み解くのが難しくなることの方が多いのかもしれませんね。
適切な「句読点」の使い方を考えてみたいものですね。